五十嵐貴久『For You』のこと

『For You』
五十嵐貴久/著 祥伝社文庫

For You (祥伝社文庫)

For You (祥伝社文庫)

 子どもが眠るときは、眠りの種子がからだの中で静かに育っていって、急にあるとき芽吹くみたいにして眠りに落ちる。息子を抱っこしていると、よく、そんなふうに思う。同じように、ある本を知ってから実際に読むまでの時間に、自分のなかで着々と心の準備が進んでいることがある。五十嵐貴久の小説『For You』を読み終えて、いまこのタイミングでこの本を読んだことが自分にとって偶然とは思えなかった。

 大好きだった叔母が亡くなって遺品の整理をしていた姪が、偶然彼女の日記帳を見つける。そこには叔母が誰にも言わなかった一度きりの恋が記されていた。日記を読み進めるうちに姪は、その恋がただの恋ではなかったことを知る、という話。
 個人的にたくさん、心に触れる要素のある小説だった。主人公である姪、朝美は映画雑誌の編集者をしていて、超人気韓国映画俳優へインタビューをする場面が出てくる。スターがちゃんと現れてくれるか、時間通りインタビューができるか、朝美はとてもやきもきする。そのくだりを読んでいるとき、去年赤坂プリンスホテルにKARAの記者会見兼握手会に行ったときに感じた気持が蘇ってきた。アイドルはみんなのもので、アイドルとしての振る舞い以上のものは望めないと頭では分かっていても、心のどこかで自分にしか分からない何か特別な連絡通路を見つけたいという、あの気持ち。
 1980年代の静岡が舞台というのも良かった。おなじく静岡を舞台にして、東京との往復で物語が進んでいく乾くるみの『イニシエーション・ラブ』という小説を読んだときに感じたのと同じなつかしさを覚えた。なつかしいというのは、遠くて近いという感覚だと思う。だから私にとって、東京から遠くて近い静岡はそこが静岡だというだけで何となくもうなつかしい。
 そして2011年現在から見た1980年代も、やっぱり遠くて近い。この小説を読むと、携帯電話とパソコンによって失われた物達を意識せずにはいられない。それを象徴するのが二穴式のウォークマンだ。高校時代の叔母が、恋をしていた同級生と一緒にウォークマンに挿した二本のヘッドホンで山下達郎の「永遠のFULL MOON」を聴きながら水族館を歩くシーンがあって、ぐっときた。原理的には可能でも、二穴式のウォークマンに象徴されるやさしい機械が今の市場に出回ることは難しいと思う。と同時に、そう思っている自分に対し苛立ちも感じる。
 なつかしい、思い出すということばかり書いてしまったけれど、この『For You』という小説はただの80年代ノスタルジーに終始しないところも素敵だ。小説は姪の忙しい日常生活を描く章と、叔母の高校時代の恋愛を描く章が交互に描かれる構成になっていて、最後は姪の現実のシーンで終わる。日記のなかの出来事と現在につながりが生まれ、叔母のメッセージを受けとって姪はひとつの決心をする。1980年代に生まれた者として、1980年代が生んだものをもっと知りたいと思った。
 そんな読者の気持ちを察するように、五十嵐さんはこの小説の題名と、各章の題を山下達郎の曲からとっている。早速ツタヤに行って「FOR YOU」と「RIDE ON TIME」「MOONGLOW」というアルバムを借りてきた。山下達郎の曲と幸運な出会い方ができたことが嬉しい。

FOR YOU (フォー・ユー)

FOR YOU (フォー・ユー)

このアルバムは私の全作品中でとりわけ愛着のある一枚です。それはきっとこのアルバムが、作品、ミュージシャンの演奏技量、エンジニアの技術、スタジオ機材の充実と、レコーディングに必要な要因の全てがちょうどバランスよく組み合わさった、私にしては珍しいほどトラブルの少ないレコーディングだったという思い出があるからでしょう。 —ライナーノーツ 山下達郎<解説>より